2011年9月11日 (日)

御検地御縄辻高覚 寛文八年(1668) 鎌形・吉野栄作家文書 №1

  寛文八年
御検地御縄辻高覚
  戊申七月        加兵衛

   三四分永代田地覚
下畠壱反弐セ拾七歩
  此役高百壱文
上田
中田三畝拾八歩
  此役高四十三文
右合百四拾四文 役
   外
 合壱升   渡し也
中畑七せ廿壱歩    う兵衛
下畑六反七せ廿歩
下ヽ畑弐反九せ五歩
切畑四せ拾歩
合壱町八畝廿六歩

三間六間 屋敷拾八歩   加兵衛
八間五間半 中畠壱畝拾四歩
拾三間六間半 下畠弐畝廿四歩
拾六間半九間 下畠四畝廿八歩
拾九間弐間 下々田壱畝八歩
九間六間半 切畠壱畝廿八歩
拾弐間拾間 下々畠四畝歩
九間三間 下々畠壱セ拾五歩
拾弐間六間 切畠弐畝拾歩
拾六間拾五間 下々畠八セ歩
拾壱間四間 下々畠一セ拾四歩
拾四間拾弐間 下々畑五畝拾八歩
拾七間六間 下ヽ畠三畝拾弐歩
八間八間 下ヽ畠弐畝四歩
拾壱間半拾四間 下畠五畝拾壱歩
弐拾六間六間  中畠五畝六歩
九間半弐間 下畠拾九歩

拾三間四間 下々田壱セ弐歩
三間五間 下畠拾五歩
大くし原
 拾間弐拾六間 下畠八畝廿歩
番匠面
 弐拾弐間六間 下畠四畝拾弐歩

 六間七間 下畠壱畝拾弐歩

 四間五間 下畠廿歩

 拾間八間 下畠弐畝廿歩
かね谷口
 七間四間半 中畑壱畝壱歩
 四間拾間 中田壱セ拾歩

 拾弐間弐間半 上田壱畝歩
 拾間弐間 上田廿歩
 拾五間五間 下々畠弐畝歩

田合六畝歩
畑合七反弐畝廿三歩
田畠合七反八畝廿三歩
   九月十五日   加兵衛
 落合二郎右衞門分入
十間八間 下畠弐畝廿歩  同人
      此畠証人七右衛門

     鎌形・吉野栄作家文書 №1

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戌畠形御年貢皆納札 寛文十年(1670) 鎌形・吉野栄作家文書 №2

   戌畠形御年貢皆納札
一金壱分     加兵衛
一永百九拾壱文  同人
 右ハ畑形御年貢永金皆済
 之勘定相違候者重而
 仕直シ可被申以上
          岩沢十左衛門㊞
  寛文拾年いぬ十二月十七日

     鎌形・吉野栄作家文書 №2

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戌畠形御年貢皆済札 寛文八年(1668) 鎌形・吉野栄作家文書 №3

   戌畠形御年貢皆済札
一永弐百四拾七文        勘太
 右ハ戌畠形御年貢永皆
 納致也志セん勘定相
 違候者重而仕直シ可申也
                岩重右衞門㊞
  寛文拾年戌極月十七日
 可有之■            岩重衞門㊞
  寛文八年申ノ
       十二月十四日

          鎌形・吉野栄作家文書 №3

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鎌形戊御年貢札 寛文十一年(1671) 鎌形・吉野栄作家文書 №4

   鎌形戊御年貢札
一米壱斗四升弐合八夕 う兵衛
 右ハ預申候     岩十右衛門㊞
   寛文十一年い
        二月七日

       鎌形・吉野栄作家文書 №4

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鎌形村いぬ御年貢札 寛文十一年(1671) 鎌形・吉野栄作家文書 №5

   鎌形村いぬ御年貢札
一米四升五合六夕 勘太郎
右ハ預申候
         十右衛門㊞
  寛文十一年い
       二月七日

   鎌形・吉野栄作家文書 №5

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かま形亥畠方納札 寛文十一年(1671) 鎌形・吉野栄作家文書 №6

   かま形亥畠方納札
一金壱分           う兵衛
一永弐百拾弐文        同人
 右之分皆済之勘定
 相違候ハヽ重而仕直シ可有也
               十左衛門㊞
   寛文十一年
      亥十二月廿日

        鎌形・吉野栄作家文書 №6

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相渡シ申永代田地手形之事 延宝元年(1673) 鎌形・吉野栄作家文書 №7

   相渡シ申永代田地手形之事
一落合三ヶ所合下畑壱反弐畝拾七歩并
 長田ノ内中田三畝拾八歩田畠合壱反
 六畝五歩之所金子五両壱歩之ゆわい
 に而永代田地ニ貴殿へ相渡し申所実正也
 但シ御年貢御役等之儀ハ来とらノ二月ゟ
 貴殿相納可被申候如此相定申上ハ於此
 田地ニ我等儀ハ不及申横合ゟ他成共毛頭
 加■ハ無御座候若相違之人御座候者
 我等証人罷出申分可仕候為後日永
 代田地相渡し申処如件
            鎌形村地主 久米衛㊞
  延宝元年      同村証人  清左衛門㊞
   丑ノ十一月廿八日
          同処村
            加兵衛殿

           鎌形・吉野栄作家文書 №7

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寅御年貢米皆済事 延宝二年(1674) 鎌形・吉野栄作家文書 №9

   寅御年貢米皆済事
米三升五合六夕三才     う兵衛
右ハ請取之勘定違候重而仕
直し可有之候
              重右衞門㊞
   延宝二年
      寅六月廿一日

       鎌形・吉野栄作家文書 №9

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卯ノ田方御年貢請取事 延宝三年(1765) 鎌形・吉野栄作家文書 №10

   卯ノ田方御年貢請取事
一米弐斗九升壱合四夕八才納
 五升弐合四夕七才     加兵衛
 請取申処也若勘定相違
 無之重而通し可申也
              弥右衞門㊞
   延宝三年
      卯ノ三月十九日

       鎌形・吉野栄作家文書 №10

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親ゆいこん書之事 享保九年(1724) 鎌形・吉野栄作家文書 №96

    享保九年
   親ゆいこん書之事
    辰ノ四月三日

一新田上■   次郎右衛門
一杏五田    久右衛門分
一てんすい乃田畑
一南川はた畑田弐斗
       ■■分
一畑上落合弐斗 平八分
        三郎衛門分
一下山畑山共
一三王まい畑
一せと畑    勘七分
一上山不残
一新田下■   笠七右衛門
一ほりあい畑
一同   田  与右衛門分
一■新田
一かつほり畑
一山下畑    茂兵衛分
一坂下畑    平八分
一山下畑    八右衛門分
一のまぬ入山  久兵衛分
一志つけ分   こま
 志■田    孫右衛門分
一めか沢下畑  久兵衛分
一下落合之畑  千之助
        久右衛門分
一めか沢山   同人分
一下山     同人分
        残分
一そり町之田畑 久兵衛分
一中落合畑   喜右衛門分
一山下とかい畑
一せと之畑   与七衛門分
一にしうら山畑
一椚山
一同山     甚五右衛門分
一和田村畑二口壱斗弐升
      和田 三郎右衛門
        与右衛門
        加右衛門
        儀右衛門
        太郎右衛門
        久兵衛
        政右衛門
        甚五右衛門

   鎌形・吉野栄作家文書 №96

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乍恐書付を以御訴訟申上候御事 享保二十年(1735) 鎌形・吉野栄作家文書 №100

   乍恐書付を以御訴訟申上候御事
一御知行所鎌形村内郷富右衛門殿御触下百性儀左衛門
 御訴訟申上候儀者拙者段々年罷寄病身ニ付忰ニ娵
 取リ跡式相譲リ可申と奉存菅谷村宇右衛門と申者
 娘仲立御座候而所望仕当十六日ニ引取申候処村方
 若輩之内ニ而源次郎孫八宅右衛門殿金平殿四人之等々
 途中ニおいて難題を申掛ケ女子うはい取リ先様相返シ
 被申祝儀をさまたげ拙者身上相立不申様ニ御計イ
 被成迷惑至極奉存候ケ様ニ百姓御かすめニ成候而ハ
 向後近村隣郷ゟ拙者共一家之者共娵むことり合
 申者無御座候子孫相立不申一類八軒之百性永代
 つぶれニ罷成迷惑至極奉存候右四人之者御召
 被出御詮儀之上何分ニも御慈悲を以子孫も相続百性も
 相立申候様被為仰付被下候者難有奉存候委細之
 義者御尋之上乍恐口上を以可申上候以上
                鎌形村訴訟人
   享保二十年            儀左衛門㊞
     卯十一月
     御代官様

             鎌形・吉野栄作家文書 №100

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一札證文之事 年欠 鎌形・吉野栄作家文書 №426

   一札證文之事
一此度大谷野内丸山新田原竹本たい通リ亀原
 迄伊奈半左衛門様御手代落合兵助殿御見分
 之上御ゑつニ被遊およそ三拾町歩と御見立
 被遊候処此度玉川村鎌形村出入ニ罷成鎌形
 山神通リ内野も相立不申南ハ順礼道
 北ハ田畑かれりと御見地入玉川村と入会罷
 成新田原竹本たい亀原通之義ハ玉川村
 当十三年以前池田喜八郎様御支配之節
 玉川村あら田前と申地所秣永罷成所ヲ右
 新田前江反少持出し候而鎌形村前々ゟ
 入会之所入会ニ不罷成鎌形村百姓古田
 畑養無御座百姓相立不申候此度
 御地頭様江御断申上御 公儀様江御訴訟
 申上候筈ニ村中大小百姓不残相極申候然
 上ハ入用等何様首尾御座候共何時ニ不か
 きら出銭いたし間違等無之心合同心ニ御
 願可申上候以上

        鎌形・吉野栄作家文書 №426

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道中諸事之事印 年欠 鎌形・吉野栄作家文書 №450

   道中諸事之事印
一五月廿四日尾州津嶋天王様
 廿七日大神富様へ参リ申候
 六間茶屋迄かえり左りへ
 はいり二本木迄四里せかいと
 迄二りこれより青山坂上
 り坂のふ本伊せきゟ三本上
 七り雨日「 これより大和国之八番
 はせ寺「三輪大明神若富様
 「なら春日明神若富穂外ニ八十八社
 道のり者はせゟならまで
 十里半八丁「みかさ山ある也
 「并ニ大仏富当の柱長廿十六丈也
 七堂がらん也 「并ニかう福寺四丁四方
 五かいとう十六丈「九番■んれん堂
 松あり「并ニさる沢の池あり
 「これより二月堂三月堂あり
 「ほうけ寺十七西かんをん「さいだ
 い寺善光寺七堂也「すが原
 天神宮「西の原七堂也
 招提寺やくし寺しか如来
 天地くよりほけきうとき十三丈
 のけさあり尺丈いろくあり
 堂八七間四方みかげ石■り也
 「こうり山城下あり「ほうりう寺
 みた仏正徳太子はしまり東とん
 りうやくし様あり「たつ田明神
 これより道五り也「たるま寺
 「そめ井寺ちう女ひめ身たうそ
 め井といとかけ梅あり「たま
 はすの池中女ひめの身たうあり
 「たかこやき宿「あべ山門土様あり
 当の峯かまたり明神十三丈
 とあり七番岡寺道七り
 「たち花寺とさ宿「六番つほ坂
 こしべ谷道ハ六り「これより
 吉野庄玉権げん様「吉永院
 にえんの行者のからちをすの
 木つばきとひばと壱本也
 よりつれのこまの足かけ石こま
 つなき松大木也これより大
 峯三上山ハ吉野ゟ七り也
 「吉野ゟ高野山へ十壱り堂ハ
 七堂也清森口のこんりうをくの
 院ハ大士様方堂八七間ニ廿壱間
 まいニむミようの橋なり
 三日「三番粉川寺ニハたのもしみや
 あり八日「二番紀三井寺いもせ山
 たげん川嶋べ天かたわなみ営社
 権げん若の浦あり若山城
 下也「か田あわ嶋様あり
 高野山大門ゟ加田へ拾四リ
 紀州加田ゟ奈州玉屋宿
 一渡海十五里也「作■山一ノ富八十八番
 金毘羅様むやゟ弐拾弐里
 四国内善通寺七十六番札所七拾七番
 小坂ゟ丸亀へ三リ「同ゟ備州
 田ノ口渡海七リ「ゆらつ山
 備中吉備浦宿「備州一ノ宮
 岡山城下播州あこう城下
 清水寺ニ四十七きの石があり
 ゆ之助まもり本蔵十七曲
 あり「ひめじ城下「そね
 ノ松「石のほうでん高沙松
 「尾上金「手植の松ありし
 んかあり「すま寺「兵庫
 「つき嶋住吉明神廿一日西之宮
 「尼ヶ﨑「大坂三拾石ノ川ふねニ
 のりふしみいなり明神
 京都大仏「三十三間堂「きた
 のの天神「金かく寺「志らし明神
 金鐐おりし六角堂白川様
 御門関清水寺大津三井寺
 これより東海道なり尾州
 御門関さつ田那神様
     寅十二月よりいで

       鎌形・吉野栄作家文書 №450

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鎌形八幡宮縁起 正徳元年(1711) 鎌形・八幡神社文書 №1

  正徳元年
   鎌形八幡宮縁起
            槙島昭武

   鎌形村八幡宮縁記
武藏國比企郡松山庄鎌形村正八幡宮は、人皇五十代桓武天皇の朝、坂上田村丸勅命を蒙り、東奧の夷賊退治として關東に赴かれし砌り、當所鹽山の絶景を感じ、延暦十二年癸酉、假初に宮柱太き立て、筑紫の宇佐宮を爰許に勸請し給ひ、同十六年丁丑、陸奧出羽の國司として征夷大將軍に補し、再下向ありし時、重て修宮の功を副られ、近隣氏の神を崇て、其神德の巍々たるを恭敬す。相次で八幡太郎義家、木曾左馬頭義仲、右大將賴朝卿、尼御臺所并に信向ましく華構の飾をなさしめ、神田地を寄られしより、代々の將軍家造營を加へられ、大社と謂ひ繁盛と謂ひ、靈驗日々に新に、道俗の渇仰歳月に增せり。尊像は應神帝大菩薩の御形を現はし、御飾を落させ給うひて、圓頂法服を着せられ、左に念珠、右に干珠、滿珠の寶顆を持せらる。傳教大師の刻彫、秘しつたえて開帳する事なし。毎歳正月二日無汁祭禮、同六日追儺牛王の加持、仝七日の神事、四月三日大菩薩降誕の會式、六月十五日神事、八月十二日より十五日に至て放生會、流鏑馬、競馬、惣て毎月朔日十五日月次の神事を執行し、天下泰平四民安堵の祈念丹誠を抽て、蘋蘩の饌を闕ず、如在の靈奠更に怠慢なし。加旃輔佐の前立、愛染明王は行基菩薩の作佛にして、惡魔降伏、衆人愛敬の本誓、神佛一致の冥鑑 世におゐて掲焉なり。奧院は阿彌陀、藥師十二神將。末社は竹内ノ臣閽神是を矢大臣將と號す。三島、若宮、御靈、松ノ尾、稻荷、聖天(大聖歓喜天と號す)、諏訪明神、惠比酒ノ宮、九頭龍王、杉尾明神、隱岐院(今鳥羽上皇の靈廟)、高良ノ宮、長戸明神等也。本社は東向にして、古代は過分の大社たりしが、亂世に回祿して漸假の叢祠を今の地に遷して保てり。別當の坊、鎌形山眞福寺大行院は顕密兼學の道場、本山修驗の靈區たり。全盛の鐘樓の蹤、當時猶見在して、鐘は軍旅の爲に奪はれ、秩父郡御堂村淨蓮寺の用器となれり。然れば神田地も連動に陵夷し、御供免、燈明免、番匠免、無計免など僅神領として抱へ來れる而已。是に依て大神君關東御入國の後、往昔の由緒を糺され、天正十九年辛卯社領貮拾石御寄進有て、御判物を成下され、大献院殿常憲院殿御朱印又歴々として、山林竹木諸役免許の鈞命を蒙り、祭祀を次ぎ法灯を挑ぐ、不退轉の洪恩併神佛德化の奇特と謂つべし。抑八幡大菩薩は東方君子國の宗庿、辱も 皇統十五代應神天皇の御垂跡、御本地は西方寂光土の本主阿彌陀如来にして、外には魔軍征伐、怨敵退散の稜威を示し、四海安寧、萬民快楽の衛護を本とし給ひ、内には八相成道の形を備て、善巧方便、濟度利益の巨多なる事逐一に記し難し、孰か信心歸衣のおもひを。凝らさざらんや且は最前鎭座し給ふ處の鹽山の勝地を相るに、苔蘚滑に巖峨々たる險岨にして、東は上原の谷、西は小倉山、南を小窪と云。麓に月河の水流、滿藏淵前後にはね石とび岩などゝて異なる盤石ならび列り、覩る人目を駭かせり。昔時潮湧出しとて、鹽澤と云る濕地あり、鹽山の稱號も是に本づける名なりとぞ。山の半腹に奇しき窂あり、土俗呼て貉の京と稱す。爰を攀て杳に峯頭に騰れば比類なき四顧佳景、さながら神仙の靈境かと疑はる。前面を海道馬場と號し、其南を木曾殿屋敷と云。左馬頭義仲の長男、清水冠者義高此所にて誕生ましくけるに、七箇所の水を挹て産湯に進らせしとて、あたり近き此面彼面に木曾殿淸水、岩淸水、天水淸水、照井淸水、鹽澤淸水、此外二ヶ所の名水八幡の社地に在り。則小倉山の城迹木曾義仲の住給ひし遺址なりと云り。往古は八幡大菩薩の神威頻りに烈しくして、凡下の族彼馬場にて馬を奔しむる事協難かりしとぞ。月川の下に馬洗と云る淵有、其頃よりの名稱にや。件の義仲は淸和源氏鎭守府將軍陸奥守義家の家督、六條判官爲義の次男、帶刀先生義賢の賢息なり。然るに義賢當國の豪士秩父次郎太夫平重澄の養子と成て、比企郡大藏堀の要害を根城として、鹽山及上野國多胡郡の采邑にも屢居を占られし。近衛院の朝、久壽二年乙亥八月義賢多胡の庄を出て、鹽山へ移らんと欲し、大藏堀の館まで來られけるに、其甥鎌倉惡源太義平(義賢の兄義朝の嫡)宿意を構る事有て密に是を狙ひ撃り。于時御息駒王丸三歳の嬰兒たるを、母上抱き取て側に忍ばせたりし。義平然してて後上京すると畠山庄司重能(重忠父、比企郡菅谷在住、今其城迹あり、鹽山より二十丁餘)に諭して曰、彼孤は健け人の子なり、生先心にくし、尋捜て亡き者にすべしと強に含られしを、重能情なくおもひて長井の齋藤別當貫盛に囑へ、是養へとて與へければ、實盛思案して東國は源家の被官多く中々鞠育し難からんと、信州へ送り乳母の夫、仲三權守兼遠に預しめたり。駒王丸成長の期、元服して木曾冠者義仲と名謂、廿餘年の春秋を經て、治承四年庚辰義兵を擧んの志を起し、上州多胡庄及當所の本領に徘徊して、亡父舊好の武士等を相晤はるといへども、頼朝の權威に壓れ義仲の促に應ずる者寡きを以て、信州へ馳皈、竟に軍を發して北陸道より皇都へ責入、平氏の諸將を追拂ひ、朝日將軍と呼れて猶關西を伐靡けん趣なりしに、家運怯して元暦元年正月廿日江州志賀郡粟津におゐて討死(三十一歳)息男義高は當所鹽山の館におはしけるを、是より■、頼朝卿鎌倉へ迎へて嫡女大姫君に娶せ斜ならず持てなされしが、父義仲亡命の遺恨心底に介まれんか、是も亦刑戮に處せられ然るべしと、内議區々の首尾あるを聞て、同年四月廿日の曉、義高鎌倉を抜落し、當所へ立越られしを賴朝卿の命を奉て、堀ノ藤次親家討手として入間河原へ馳着、敢なくも義高を討捕■。靈廟今其地に在り。入間川の宿、八幡宮則是なり。此時大姫君愁傷の餘永く漿水を斷て日夜紅涙に沈み、追慕の念須臾も止ず。文治三年丁未二月尊靈の菩提の爲とて比企郡岩殿權音へ詣給ひ、當所八幡宮へも社參有て、義高舊館の地に姑く滯座し給ひしとぞ。義高の後胤淸水氏を稱して當時も幕府の麾下に奉仕セラルゝと云り。凡草創の延暦十二年より是歳辛卯に到て、星霜九百三十年。宮所巍然として神德更に古今を分たず。末世澆漓に及ぶといへども信力堅固の輩などが哀愍納受の示現を蒙ざらんや。仰くべし祟ふべし。于時正德改元の秋、大行院秀繁の需に因で、東武南縣の賤夫槇島昭武謹て記レ之。云レ爾。

                    鎌形・八幡神社文書 №1

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鎌形八幡宮縁起草稿 天明五年(1785) 鎌形・八幡神社文書 №2

 天明五丁巳年八月
   鎌形八幡宮縁起草稿
            周基代改正

武蔵国比企郡松山荘鎌形山八幡宮ハ人皇五十代桓武天皇朝坂上田村麿勅命を蒙り東奥の夷賊退治として関東に赴れし砌当所塩山の寄景を感し延暦十二年癸酉仮初に宮柱しく立て宇佐宮を勧請し給ひ同十六丁丑陸奥出羽の国司として征夷大将軍に補し再ひ下向ありし時重て修営の功を副られ近隣氏の神と崇めて其の神徳の巍々たるを恭敬す相継て伊予守頼義八幡太郎義家東征の砌は所領を籠られ其後帯刀先生義賢木曽左馬頭義仲右大将頼朝尼御台所に至るまで信向ましまし華構の飾りをなさしめ神田地を寄せられしより代々の臣公造営を加ゑられ霊験日々に新にして道俗の渇仰歳月に弥増けり尊像は応神帝大菩薩にして御餝りを落させ給ひ円頂法服を著せられ左に念珠右に宝顆を持せられ聖徳太子の刻彫秘し伝て開扉する事まれなり毎歳正月二日無汁神事同六日追儺牛王加持同七日神事四月三日大菩薩降誕の会式六月十五日神事八月十二日より十五日に至るまで放生会流鏑馬競馬惣して毎歳朔望月次の神事執行し専天下泰平四民安穏の祈念丹誠を抽て蘋蘩の饌を闕如せす如在の礼奠更に怠慢なし加旃輔佐の前立■士愛染明王は行基菩薩の作仏にして悪魔降伏衆人愛敬の本誓にして神仏一致の冥鑑世におゐて掲焉也奥院は阿弥陀薬師十二神将末社は竹内臣閽神三島若宮御霊松尾稲荷聖天(大聖歓喜天也)諏訪恵比寿(西ノ宮太神)九頭竜王杉尾隠岐院(後鳥羽上皇也)高良長戸等也本社ハ東面にして古代の殿社は無比の大社たりしか乱世に回禄して(応仁文明ヨリ元亀天正ノ比罹兵火数度焼亡ス故殿社衰弊可知也)漸く仮の叢祠を今の地に遷し保り別当坊鎌形山真福寺大行院は顕密兼学道場本山修験の格院たり往昔全盛の遺跡鐘楼等礎趾当時も猶見在す鐘は軍旅に奪れて秩父郡御堂郷浄蓮寺の法器となれり(一行銘曰上州緑野郡板倉郷円光寺鐘正慶二年癸酉三月廿二日願主尼蓮阿大工沙弥浄円又一日敬日武州比企郡釜形郷八幡宮鐘大檀那矢野安芸守文明十一年己亥八月九日聖永運海栄尊栄枯栄金心栄栄俊祥祝栄須俗名戒名等30余人有之也略)
然して神田地も陵夷し御供免灯明免番匠免無計免など僅に神領として抱へ来れるも今は唯名のみを残せり。
大神君関東御入国の後往古の由緒を糺れ天正十九年辛卯社領弐拾石御寄進有之継て 大猷院殿 御判物を下されしに寛文四年甲辰十月十日夜別当坊中焼失して 御二代御朱印并往古伝来の神宝記録等不残焼亡せり夫れより二十余年を経て貞享元年甲子本田淡州侯より御代宦近山氏与左衛門に仰て御検地の上御千代今井新七宮﨑入右衛門同二年乙丑再び 常憲院殿 御朱印を下され山林竹木諸役免許の蒙 釣命祭次神灯を挑て不退転の洪恩併神仏徳化の寄特と謂つべし抑八幡大神は東方君子国の宋廟 辱も 皇統十六代応神帝の御重迹御本地は西方寂光土本主阿弥陀如来にして外には魔軍征伐怨敵退散の稜威を示し四海安寧万民快楽の衛護を本とし給ひ内には入相成道の形を備て善功方便済度利益の巨多なる事逐一に記し難し孰か信心帰依の思を凝さらんや且は最初鎮座し給処の塩山の勝地を相るに苔蘚滑に巖峨々たる険岨にして東は上原の谷西小倉山南小窪と言麓に月川の水流満蔵ヵ渊前後には称石飛石抔と異なる盤石ならひ列り覩る人目を駭せり昔日潮湧出しとて塩沢と言る温地あり塩山の称号も是れに本つける名とそ山半腹に寄窂あり土俗呼んて貉の境と称す此れを擧て杳に峰頭に騰は比類なき四顧の佳景神仙の霊境かと疑る前面を海道馬場と号し其南を木曽殿屋敷と言左馬頭義仲誕生の始め七箇所清泉を挹て産湯に用ひしとて此面彼面に木曽殿清水岩清水天井清水照井清水此外二ヶ所の名水当社境内に在之(此所謂ニヤ信州木曽谷義仲古館宮越駅ニ産湯清水若宮有之ト言俗称言武州鎌形産湯清水八幡宮若宮国史云治承四年五月廿八日義仲効外ニ八幡大神ヲ鎮メ祭リ大ニ餅酒ヲ施二民人一ト云)則小倉山の城跡は義賢大蔵堀の根城とそ于今其遺址あり往古八幡宮の神威頻に烈しく凡下の族彼馬場にて馬を奔しむる事恊ひかたかりしと也(故ニ地ヲ遷シテ今ノ土地トスト云)都幾川の下に馬洗と言るい渊あり其頃よりの称号とそ件の義賢は清和源氏前陸奥守義家家嫡六条判宦為義の息男左馬頭義朝の舎弟也然るに義賢当国の豪士秩父次郎太夫平重澄の養子と成て比企郡大蔵堀の要害を居城として小倉山及ひ上野国田胡の荘にも屡居せられし処近衛院の朝久寿二年乙亥八月義賢多胡荘を出て大蔵堀の舘へ来られしに其の娚悪源太義平(義朝嫡子鎌倉悪源太ト云十四歳)宿意を構る事有りて密に狙ひ撃り(為夜軍亡命ト云義賢ノ霊社同郡福田邑ニ在之社号義賢浅間ト云元久元年甲子正月十五日勧請スト云)
于時息男駒王丸三歳の嬰児たりしか母君と倶に当社の境外に居給ひしに(其ノ旧跡于今顕然タリ木曽殿屋敷トナル前見)義平上京するとて次郎重能(重畠山荘司重忠ノ父ニテ同郡菅谷在城也)に諭して曰彼の孤は健士子也生先き心にくし尋捜て亡きものにすべしと強に含られしを重能情ありて長井の齋藤別当実盛に(永井郷鎌形ヨリ七里余数通行シテ好テ衆徒ニ結ト云)嘱へ是れ養之とて与へけれは実盛思案して東国は義平の属士多く中々■育し難からんと信州へ送り乳母の夫仲三権守兼遠に預しめたり駒王丸成長の後元服して木曽冠者義仲と名謂二十余年の春秋を経て治承四年庚辰高倉宮奉令旨義兵を挙んと上州多胡郡及ひ当所の旧地に徘徊して亡父旧好の武士を語はるといへ共東国は過半頼朝郷に属して義仲の催促に応するもの寡を以て信州へ馳帰り逐に軍旄を挙て北陸道より皇都へ責入平氏の諸将を追払ひ朝日将軍と呼れて猶を関西を伐靡ん趣なりしに家運怯して元暦元年正月廿一日江州志賀郡粟津におゐて討死(時ニ禅定門大公宜三十一歳義仲ト言也)息男義高(清水冠者ト言)是より嚮頼朝義仲疑心を懐て矛盾に及んとせし時土肥の実平をして義高を鎌倉へ質とし迎へて和順し則嫡女大姫君に娶せ斜ならす持なされしに父義仲亡命の遺恨心底に夾れんの是も又刑戮(?)に処せられ可然と内議區の首尾あるを聞て同年四月廿日の暁義高鎌倉を秡落して当所へ立越んとせられけるに頼朝卿の命を奉て親堀藤次家討手として入間川原に馳著敢なくも生害し■ぬ霊廟此社大社也鎮守也于時大姫君愁傷の余り永く漿水を断て日夜紅涙に沈み追慕の念須臾も止す文治三年丁未二月亡夫菩提として義高所持の本尊弥陀の一躯を随身し給ひ当社の宝匱へ籠られ旧舘に姑く滞座して比企観音所々の霊堀へ詣し給ひとそ猶干亦義高の舎弟義綱も(母桜木局ト云文治三年ニ卒義綱ハ木曽義治郎ト云後苗改二馬場一十九代裔栗木備前守義高小田原属北条家天正年中於豆州山中要害討死)も旧地を慕ひて信州より下向し当社の隣村に居して今猶安続せり是供併鎮守の冥契なるのみ猶亦木曽の後胤として清水氏を称して当時も(清水権之助ト云采地一線余石也)幕府の麾下に奉仕せらる(元禄ノ頃由緒ヲ慕テ武器ヲ奉納セラル也)凡そ草創の延暦十二年より是年辛卯に至て星霜九百三十年宮所巍然として神徳更ニ顕然たり末世■漓に及といへ共信力堅固の輩なとか哀愍納受の示現を蒙らざらんや仰くべし祟ぬべし于時正徳改元の秋別当大行院秀繁寛文四年老父秀栄の代焼亡せる古記の趣を拾ひ古老の伝説を証し見在の名称にまかせて千百カ十一を揚る而已
桜木房法諱 徳音院殿木曽桜后妙照大禅定尼
  信州木曽宮ノ越駅徳音寺有之彼境外産湯清水八幡若宮有之
義仲法諱 木曽朝日将軍義仲宣公大禅定門
  廟社 南宮法照大明神古舘遺址鎮坐
齋藤実盛 篠原院前左余吾従五位下徳山覚道真阿大居士

天明五年丁巳八月従勧請至一千年諸堂社惣開帳十余日勤行之畢因以古縁記之補闕如略考国司註之而已当山周基記
            周基印 大行院印

                    鎌形・八幡神社文書 №2

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2011年9月10日 (土)

申渡覚 天保六年(1835) 遠山・杉田角太郎家文書 №3

     申渡覚
    武州比企郡遠山村
          年番名主
            次郎右衛門
          同断名主
            左右蔵
          同断名主
            儀左衛門
   其村方役場帳面名主
   代替之節受取渡滞
   有之趣当年番名主
   次郎右衛門願出候ニ付双方
   取調及吟味候処全元名主
   民右衛門燒候而相訳兼候
   尤燒残品別紙押切リ
   目録ニ有之候内水帳手
   摺候所帳消改印下札
   有之候拝借鉄炮玉目
   三匁五分以是損有之
   先年番名主左右蔵ゟ
   加修復可相包候向後者
   申合先規通休番之者ゟ
   相渡シ当番之者可受取
   猶年番三人之者申合
   御用向念入相勤可申
   もの也
     地頭所㊞
  天保六年      三浦吉左衛門㊞
   未九月      冨田次蔵  ㊞

      遠山・杉田角太郎家文書 №3

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乍恐以書付奉願上候 天保八年(1837) 遠山・杉田角太郎家文書 №4

   乍恐以書付奉願上候
 内藤小膳知行所武州比企郡遠山村
 百姓清蔵煩ニ付同人兄同村百姓文右衛門
 奉申上候者前書清蔵義近年病身ニ
 罷在殊ニ年々違作相続キ漸ク渡世
 仕罷在候処当月十四日之夜同州同郡
 下里村下分百姓太重郎与申者前書私
 弟清蔵女房かつをさそい出し候ニ付
 精々相尋候処右下里村上分組頭重右衛門
 義如何相心得候哉右両人押隠シ置候
 旨及承候ニ付夫々懸合仕候得共不当
 之義申募元来前書太重郎義者
 百姓与者乍申作業渡世致候義も承り候
 義無之何渡世致候哉是迄両三度ニ及ヒ
 長脇指を相帯シ私村方江罷越不法之
 働キ致候義共有之候処此度同人自分与
 申威シ候ニ者同州岩殿無宿菊治郎与
 申者之子分ニ而遠山村百姓共一同ニ
 罷越候共我等壱人ニ而手合セ仕可申抔与
 理不尽ニ相構強勢を以相掠世話人
 立入呉候而も曽而取敢不申殊更右
 連出候節衣類并雑穀其外少々金子
 小遣銭等有之候も不残取仕舞持出候得者
 右重右衛門義も見込有之宿致候哉右様
 清蔵病身ニ御座候得者看病等ニ茂
 必至与差支百姓壱軒退転ニも及可申
 義与乍恐奉存候間何卒以
 御威光右太重郎并重右衛門両人
 御召出之上かつ身分并持出之品物等
 不残相返し呉候様被為仰付被為下置度
 奉願上候乍恐余者口上ニ而可奉申上候以上
  天保八年       内藤小膳知行所
    酉ノ四月    比企郡遠山村百姓
             願人清蔵煩ニ付
             同人兄同村百姓
             願人   文右衛門㊞
             同組合親類 安次郎 ㊞
             同組合   与兵衛 ㊞
             同     要 吉 ㊞
             同     丈 助 ㊞
            名主左右蔵出府ニ付
             同村組頭  儀左衛門㊞

            遠山・杉田角太郎家文書 №4

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質地證文之事等 弘化四年(1847) 遠山・杉田角太郎家文書 №7

   質地證文之事
 上畑五畝拾五歩    字山の根
 上畑壱反弐畝廿歩   〃田端
 上畑五畝拾歩     〃
 上畑壱反壱畝廿歩   〃山の根
  此質代金七両三分ト永四拾八文
年々御年貢御上納ニ差支難義ニ付組合
親類相談之上当未正月ゟ来ル辰年十二月迄
拾ヶ年季ニ相定貴殿方江書面之田畑質地ニ
相渡シ前書之質代金不残只今慥ニ請取申所
実正也然上者貴殿方ニ而御年貢諸役御勤
御支配等被成候此田畑ニ付先刻書入等脇ゟ
構申者無之若否申者御座候ハヽ伽印之者何方
迄茂罷出埒明ケ可申貴殿遠方故地主加印
立会小作人相附滞リ無之様可致候少茂貴殿江
御苦労相懸申間敷候年季明右之本金返済
仕候ハヽ地所證文共御返シ可被下候為後日質
地證文仍而如件
            比企郡遠山村
                地主 礒右衛門㊞
  弘化四丁未年九月    証人与頭 次郎右衛門㊞
                名主 左右造㊞
            同郡太郎丸村
              宗順殿

   小作證文之事
 上畑合弐反三畝拾五歩    字田端
 上田壱反壱畝拾歩      〃山の根
   此小作米永六貫百五拾文
御年貢納永三貫
諸役高掛人馬勤代永弐貫文小作人口引
年柄違作手当永七百五拾文引
残而作徳永七百五十文候十一月十五日限リ
貴殿方江持参相渡シ可申候
前書之田畑我等方ゟ貴殿方江質地相渡シ置
候所我等勝手合ヲ以小作證人相立前書
入口米永ニ而小作控申候然上者御年貢
諸役小作米之内ニ而御上納請取書之義ハ貴殿
名前ニ取置作徳米永年ニ金三両永廿九文八歩ツヽ
拾ケ年之内別紙対談之通相済可申候作
徳米永差滞候ハヽ加印之者弁納可申候貴殿
方江少茂御苦労相掛申間敷候為後日小
作引受證文仍而如件
            遠山村
   弘化四丁未四月     小作人 礒右衛門
                證人  次郎右衛門
            太郎丸村
              宗順殿

   別紙対談書之事
一金七両三分ト
    永四拾八文    但シ質地證文金也
右之金子質地證文差入借用有之所
作徳金滞リ之旨御願立被成当
御役場江御頼越ニ相成分済方被
仰付掛合申福本保之助殿立入示談之上
作徳滞高之内壱分当金弐分質地證文江
詰込奉勘弁質元金之義ハ当未ノ年ゟ来ル
辰年迄此価拾ヶ年賦割済ニ御承知被下
忝存候尤證文之義ハ是迄之姿ニ書替可申筈
然上者割合之通年々無相違差送リ可申候
万一相滞候ハヽ加印之者弁金可致候右年限
不残相済候上者地所并證文之通御返シ
可被下候扨又等閑ニ致置候ハヽ證文面之通
御取噯被成候共決而斗考申間敷候為
後日別紙対談致置候所如件
            比企郡遠山村
                当人 礒右衛門 ㊞
                証人 次郎右衛門㊞
   弘化四丁未四月         名主左右造㊞
                   福本保之助㊞
            同郡太郎丸村
              宗順殿

            遠山・杉田角太郎家文書 №7

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差上申一札之事 弘化五年(1848) 遠山・杉田角太郎家文書 №8

   差上申一札之事
一今般本家茂左衛門ゟ私相手取
 其御役宅江御願立被成候所下里村
 孫兵衛殿御立入被成夫々御和解
 被下候ニ付承服仕候全心得違之
 段重々先非後悔毛頭申訳
 無御座候右御同人ゟ御詫申
 上候所早速御聞済被下難有
 仕合奉存候為後日一札差上申所
 如件
            当人 吉兵衛
  弘化五申二月    組合 初太郎
            仝  孫兵衛
            仝  幸 吉
  村方
   御役人中様

      遠山・杉田角太郎家文書 №8

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差出申一札之事 弘化五年(1848) 遠山・杉田角太郎家文書 №9

   差出申一札之事
一此度私分家吉兵衛を相手取
 其御役宅江御願立候処下里村
 孫兵衛殿噯人ニ立入被成訴答
 厚御利解被下承服仕右
 熟談相届キ然上者吉兵衛女子
 と相続之事相違無御座候
 然ル上者余人ゟ聟養子
 世話致候者御座候節者明之
 世話可仕候右願之廉を以聊
 縁談故障ケ間敷●印
 無御座候間右願之節御下ケ
 被下候様奉願上候勿論内済為
 取替證文差上申候前之意
 趣御聞済被下内済熟談
 相届キ偏ニ難有仕合奉存候
 為後日一札差上申所如件
            当 茂左衛門
  弘化五申二月    組合吉右衛門
            同 茂 八
            同 瀬右衛門
   村方
    御役人中様

      遠山・杉田角太郎家文書 №9

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差上申一札之事 弘化五年(1848) 遠山・杉田角太郎家文書 №10

   差上申一札之事
 従前々郷境ニ相立置候字横吹ニ而
 村林三ヶ所之内川筋上通り之地所
 境等聢与存之候所其元持分下々畑
 弐畝廿八歩之続キニ者存之候得共右村林
 境木を伐取川端迄伐下ケ候ニ付村役人
 上ゟ心得違之旨申聞候得共一切不相用
 村役人申条を等閑ニ相心得村持之
 場所ヲ押領可致心底不得其意義ニ候
 尤我意ヲ以村林ヲ勝手ニ伐取
 候而茂宜敷次第御座候ハヽ其段
 逐一可申述候
 前書之趣披見仕候処不調法之次第
 全心得違一言申訳無御座候依之
 右村林為木代金壱両村方江差出し
 申候間村御役人方右様御勘弁被下
 村方一統江不始末相働候段御宥被下
 候様奉願上候然上者心底相改我侭
 不法不仕重而急度相慎可申候仍而
 組合連印為後證一札差上申所如件
            当人 平兵衛
 弘化五戌申三月    五人組文右衛門

      遠山・杉田角太郎家文書 №10

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差上申一札之事 弘化五年(1848) 遠山・杉田角太郎家文書 №11

   差上申一札之事
一今般為御褒美御酒代被下置
 難有仕合ニ奉存候ニ付右御酒名主
 宅ニおいて小前之者江茂披露為
 相給候所一同御仁恵之段難有
 頂戴仕御礼申述一同帰宿仕候得共
 其元義者何れニ相心得候哉百姓
 代平兵衛宅江立寄高声ニ申訇リ
 不法之次第剰手疵ヲ負候由ニ而
 村方并隣村役人衆迄御苦労相掛
 我侭之次第以書付申披可致候以上
   申三月四日  村内
            役所
                安治郎
                組合中
 前書之趣披見仕候処御察当ニ預り
 奉恐入候酒狂之上全心得違一言
 之申訳無御座候ニ付禁酒仕候間
 右様不法之始末御免可被下候
 然上者故心仕重而不法不仕急度
 相慎可申候仍而為組合連印仕
 為後證一札差上申所如件
   弘化五申年三月
            当人  安治郎 ○印
            組合親類丈 助 ○印
            同断  団 吉 ○印
            与合  要 吉 ○印
            判頭  与兵衛 ○印
  村方
   御役人中様

         遠山・杉田角太郎家文書 №11

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差出申一札之事 文久元年(1861) 遠山・杉田角太郎家文書 №17

   差出申一札之事
一今般於村方ニ博奕之宿者勿論
 賭之諸勝負等決而致間敷旨厳重
 被申聞候所承知仕候然上者判頭共
 急度精々致見廻仕悪事等為致申
 間敷候万一押而宿等致候者御座候
 節者家之〆りを外シ判頭共江預リ置
 村御役人中江申出御差図を請可申
 候右之通リ被 仰聞候所一同承知
 奉畏候依之連印一札差出
 申処依而如件
   文久元酉年  峯吉  ㊞
      七月日  新造  ㊞
                         藤五郎 ㊞
                         輪吉  ㊞
                         段吉  ㊞
                         与兵衛 ㊞
                         峯造  ㊞
                         吉右衛門㊞
                         七五郎 ㊞
                         寅松  ㊞
                         しも  ㊞
                         平兵衛 ㊞
                         源右衛門㊞
                         三左衛門㊞
                  判頭 吉兵衛 ㊞
                         与吉  ㊞
                         要吉  ㊞
               百姓代 幸吉  ㊞
               〃判頭兼五兵衛 ㊞
  村御役人中

        遠山・杉田角太郎家文書 №17

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一札之事 元治元年(1864) 遠山・杉田角太郎家文書 №20

   一札之事
一村方組頭民右衛門殿病身ニ相成候ニ付跡組頭
 御役之義小前一同相談仕候処与頭民右衛門殿忰啓三郎殿江
 一同落合ニ相成候ニ付跡組頭御役同人江御願
 被下度則小前一同落合連印差出し申所如件
                遠山村
   元治二丑年二月          吉兵衛 ㊞
                    峯吉  ㊞
                    新造  ㊞
                    藤五郎 ㊞
                    善助  ㊞
                    岸造  ㊞
                    輪吉  ㊞
                    段吉  ㊞
                    与兵衛 ㊞
                    勇右衛門㊞
                    要吉  ㊞
                    与吉  ㊞
                    三左衛門㊞
                    源右衛門㊞
                    粂造  ㊞
                    弥兵衛 ㊞
                    寅松  ㊞
                    七五郎 ㊞
                百姓代 五兵衛 ㊞
                同   平吉  ㊞
     村御役人衆中

            遠山・杉田角太郎家文書 №20

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差出申一札之事 慶応二年(1866) 遠山・杉田角太郎家文書 №21

   差出申一札之事
一今般伯父禎山儀私父病死仕候処江
 罷越私江相懸リ親病中伯父江対し
 雑言致候抔甚以不相分儀申之村
 御役人様并村方一同御立合之処ニ而
 私江難渋申懸候得共其詮者親大病
 ニ付薬用致度候所伯父禎山悉相
 拒候ニ付親ニ者難替義ニ付伯父之
 申事たり共不相用候得者右者村
 役人故障ニ而雑言等為致候様申訇
 候段預御穿鑿ニ全跡形茂無
 之義申候段申訳無御座候ニ付扱
 人ヲ以侘入候処早速御承知被下
 難有仕合奉存候然上者向後村
 御役人様御出向之節者組合親
 類ニ而追払一切御目通り為致申間敷
 候依之組合親類連印一札差上
 申所仍如件
   慶応二年   当人  文治郎 ㊞
    寅七月日  組合  数右衛門㊞
               同   三左衛門㊞
               親類  団吉  ㊞
               同   寅松  ㊞
              世話人 五兵衛 ㊞
   御役人衆中様

      遠山・杉田角太郎家文書 №21

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一札之事 慶応三年(1867) 遠山・杉田角太郎家文書 №22

   一札之事
一村方組頭礒右衛門殿病身ニ相成候ニ付跡組頭御役
 之儀小前一同相談仕候処与頭礒右衛門殿忰倉之助殿江
 一同落合ニ相成候ニ付跡組頭御役同人江御願
 被下度則小前一同連印差出し申所如件
                遠山村
   慶応三卯年十月            吉兵衛 ㊞
                      峯吉  ㊞
                      新造  ㊞
                      利三郎 ㊞
                      善助  ㊞
                      岸造  ㊞
                  安次郎 後家  ㊞
                      段吉  ㊞
                      与兵衛 ㊞
                      勇右衛門㊞
                      要吉  ㊞
                      数右衛門㊞
                      三左衛門㊞
                      文次郎 ㊞
                      粂造  ㊞
                      弥太郎 ㊞
                      寅松  ㊞
                      七五郎 ㊞
                  百姓代 五兵衛 ㊞
                      平吉  ㊞
    村
     御役人衆中

              遠山・杉田角太郎家文書 №22

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御朱印地反別御取調書上帳 明治二年(1869) 遠山・杉田角太郎家文書 №23

   明治二己巳年  比企郡
  御朱印地反別御取調書上帳
   七月
             遠山村

一高拾石            遠山寺領
  此町歩相知レ不申候
    内訳 三斗五升蒔  田方
       三斗三升蒔  畑方
 子年物成
  米六俵ト弐斗五升    田方
 〃
  金壱両壱分ト
     銭弐貫三百文   畑方
 丑年物成
  米 同断        田方
 〃
  金 同断        畑方
 寅年物成
  米五俵ト  但違作ニ付 田方
     弐斗五升      引下ケ申候
 〃
  金壱両弐朱ト
     銭弐貫三百文   畑方
 卯年物成
  米三俵ト 但違作ニ付
     壱斗 引下ケ申候 田方
 〃
  金三分弐朱ト  同断
     銭壱貫文     畑方
 辰年物成
  米六俵ト
     弐斗五升     田方
  金壱両壱分ト
     銭弐貫三百文   畑方
 〆米弐拾六俵ト
     壱石壱斗     但四斗入
  金五両三分ト
     銭拾貫弐百文
  右五ヶ年平均
 壱ヶ年分
  米五俵ト
     三斗
  金壱両壱分ト
     銭壱貫三拾八文
  田畑 見取場      無御座候
     流作場
  運上          無御座候
  役米          無御座候
  延口米         無御座候
  口永          無御座候
  冥加米         無御座候
  薮           無御座候
  山林  弐ヶ所 但見面壱反八畝歩
            位ニ御座候

 右之通リ相改相違無御座候以上
            武州比企郡遠山村
   明治二己巳年七月      曹洞宗
                   遠山寺
                  名主
                   啓三郎
  民改
   御裁判所

         遠山・杉田角太郎家文書 №23

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為取替申議定一札之事 明治三年(1870) 遠山・杉田角太郎家文書 №24

   為取替申議定一札之事
一今般村々名主役之儀定役ニ取極候様被
 仰付候ニ付村方一同相談仕候処当村之義者前々より
 定役名主之節者数度滞有之小前百姓及難儀
 無是非組頭ニ而年番名主相極メ相勤候以来数年
 村方平和ニ相治リ安心仕候ニ付是迄之通年
 番ニ相勤候様ニ仕度奉存候得共是非定役取
 極メ候様再三被 仰付候ニ付又々相談之上組頭
 壱人五ヶ年限名主名目差出シ勤方之儀者是迄
 之通リ名主組頭一同ニ而年番ニ相勤メ候筈五ヶ年
 相勤候ハヽ外組頭江名目相渡シ候筈一同相談之上
 相極メ此度組頭啓三郎定役名目差出シ五ヶ年
 相通候ハヽ外組頭江名目可相渡候筈ニ而勤方之儀者
 名主組頭三人ニ而年番ニ相勤候筈代リ々名目五ヶ
 年宛差出シ可申筈相極村方一同承知之上儀定
 取極一同連印仕候所相違無御座候為後
 證議定一札仍而如件
  明治三午年三月      峯吉  ○印
                 岸造  ○印
                 源七郎 ○印
                 文治郎 ○印
                 粂造  ○印
                 弥太郎 ○印
                 勘五郎 ○印
                 七五郎 ○印
                 勇蔵  ○印
                 与平  ○印
               安治郎
                 後家  ○印
                 段吉  ○印
                 善造  ○印
                 利三郎 ○印
                 新造  ○印
               判頭
                 吉三郎 ○印
               〃
                 要吉  ○印
               〃
                 半三郎 ○印
            判頭 百姓代
                 五平  ○印
               〃
                 平吉  ○印
               組頭
                 武八  ○印
               〃
                 治郎  ○印
               〃
                 啓三郎 ○印

            遠山・杉田角太郎家文書 №24

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村絵図 延宝七年(1679) 遠山・杉田角太郎家文書 №28-2

   村絵図
武州遠山寺与同国遠山村百姓山論之事令糺明也慶安
五年すかや村平澤村千手堂村下里村玉川郷百姓共取扱証文之通
遠山寺修造之時分萱足代不可出也八幡小社遠山寺境外たりと
いへとも棟札之面遠山寺現住と書記之間遠山寺可為支配但八幡
面田五畝拾歩年貢遠山寺年来不致収納也其上遠山村
水帳之内戴之条向後公儀江可上納也仍為後鑑絵図之面
八幡境内墨筋引廻し加印判双方江下置之間不可違失者也
   延宝七己未年六月
                甲斐喜右
                徳五兵
                杉内蔵
                宮若狭
                嶋出雲
                松山城
                板石見

              遠山・杉田角太郎家文書 №28-2

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2010年12月 3日 (金)

寺子屋から学校へ(別表)

GO!GO!嵐山3』掲載記事「寺子屋から小学校へ」の「別表」です。

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