古文書あれこれ

2009年5月22日 (金)

町の今昔 土橋家文書 忠大夫軍忠之状 安藤専一 1979年

 歴史家は戦国時代を下剋上の乱世と評価している。
 正にそのとおりで全国各地とも相剋相つぎ乱世の姿を如何なく暴露している。
 中部地方の戦国大名として勇名をとどろかした諸候は、甲斐の武田氏、北越の上杉氏、遠江の今川氏、三河の徳川氏、尾張の織田氏、豊臣氏等々である。
 本題は川中島合戦にまつわる武田信玄、上杉謙信の決戦に武田氏配下として参戦した土橋忠大夫の記述である。
 天文二十二年(1553)信玄、謙信はじめて川中島に戦って以来、九年にわたる長い合戦であったが、永禄四年(1561)の戦いが最後の決戦であった。「甲陽軍鑑」は武田信玄とその子勝頼の事蹟を記した書で、その内容は、法制・事蹟・合戦・軍法など多方面に渡って記されてある。
 著者は信玄の老臣高坂弾正信昌がその大部分を執筆し、甥の春日惣次郎が書きついだものとされている。この甲陽軍鑑に対抗して、謙信をたたえる軍記が「北越軍記」で、作者は宇佐美定祐となっている。
 題名の土橋忠大夫が授かった軍忠の状は、甲陽軍鑑を執筆した武田家の老臣高坂弾正の名で出ているもので、次のような内容を持った書である。

  信州川中嶋合戦之刻先鋒無比類
  走廻神妙之至候 既爲加恩分下
  塩尻郷七拾五貫文甲州上手郷百
  七拾五貫文所宛行不可有相違
  弥守此旨可抽軍忠之状如件
    永禄四年酉九月十八日
         高坂 弾正
            泰之
        土橋忠大夫殿

 右軍忠の状は土橋家の租尚勝の祖父土橋忠大夫が、川中島合戦の折武功甚大のかどにより授かった御墨付で、今なお土橋家に秘蔵保管されているものである。
 土橋家は、大字越畑字串引に在り、同家には源経基(六孫王)より尚勝の代に至る系図譜が残っているが、之によると先祖は、清和源氏系足利義高の子土橋下野守尚氏で、尚氏より三代を経て武田家に仕え(四代仕官)武田家没落により兄弟尚康・尚勝・尚定)三人共浪人の身となる。後長兄尚康は徳川家康に召出され、弟二人は武州松山城主に引取られた。その後松山落城の折、同列の内尚勝は比企郡越畑村字櫛引の地に落人として土着し現在に及ぶと聞く。
 当家は三百数十年を経る旧家で土橋政一氏は第十五代に当たるという。

   土橋家の古文書及び系図譜
一、古文書 忠大夫宛軍忠之状
   永禄四年酉九月十八日付
一、家系譜 源経基より尚勝の代に至るもの

     『嵐山町報道』280号 1979年(昭和54)5月25日

※土橋家の「土」の字は「土」に「`」をつけている。

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2009年5月21日 (木)

町の今昔 信越の城主安藤山三郎の事 安藤専一 1969年

     知行目録
 一、六拾弐石
  越後傾城郡板倉郷未増村
 一、廿石五斗
  信州更科郡須立村内
 一、百拾七石五斗
  同郡須立村平林村内
  都合弐百石也
 右宛所爲全て領地者也
  慶長廿年九月十一日
          忠輝
 安藤山三郎へ

 右知行目録は大字古里安藤宗家の所蔵文書である。山三郎は当家第三代の当主となっている。
 慶長八年(1603)徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、やがて江戸城の殿閣成って此処を本拠として幕府の第一歩が発足されるに至った。外交では朝鮮との国交回復し、オランダと通商成って平戸港に商館も設けられた。又スペインやイギリスとの通商も成立して、外交面は順調な歩度を進めていたが、内政は尚多事多端であった。即江戸大坂間の対立が今尚続き、就中慶応十九年(1614)方広寺大仏鐘銘事件は、事の外その衝激が大であった。忠臣達の決死の接渉にもかかわらず両者の和解成らず、遂に同年大坂冬の陣、同二十年(1615)夏の陣の勅発となり、江戸軍勢は大挙西北して大坂城を攻め立て、さすがの堅城はついに落ちて、豊臣氏は滅亡した。
 安藤山三郎は若くして才気ありまた血気に溢れ武人を志して家郷を出、越後に走り高田城主松平忠輝の家臣となった。たまたま慶長十九年大坂の陣、続いて夏の陣に参戦して武功あり、その賞として城主忠輝より信越の地に采邑都合弐百石を賜わった。その知行目録が当初掲示のもので今尚同家に保存されている。
 山三郎は長年信越の城主として高山城主松平忠輝の配下に属していたが、晩年職を退いて郷里武州比企郡古里村に戻り安藤家中興の祖を自負して、家政を整え名実共に大安藤の楚を築いた。また郷党の指導者として近隣の農民を善導治山治水事業にも手を延べて大いにその実績を挙げた。
 山三郎は古里村における古今を通じて真に剛気果断、篤実無比の偉丈夫であった。
     『嵐山町報道』195号 1969年(昭和44)6月25日

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2009年5月12日 (火)

掘出古書あれこれ 4 歎願書 安藤専一

   (四)歎願書
 乍恐書附以奉願上候
一、御知行所武州比企郡中吉田村名主奉申上候儀ハ百姓惣右衛門儀同州秩父大宮宿ニ而借家仕候而大工渡世仕候処三ヶ年己歳巳十月中風而家出致候行方不相知レ候ニ付夫々親類組合手続ヲ以所々相尋候得共今以便儀無之候間右惣右衛門之儀ニ付乍恐御上様へ御願奉申上候是又惣右エ門誠に実○之者御座候得共何故家出致候哉委細相分リ不申候間猶亦乍○村方へ立帰り改心仕候而御百姓方仕候様ニ至度奉存候右ニ付住方不相知レ候間乍恐御地領所様へ此段御届ヶ奉申上候為後日親類組合連印ヲ以奉差上候 以上
                         御知行所
                          武州比企郡中吉田村
                                  親類 伝兵衛
                                  組合 友吉
                                  組頭 平次郎
  安政六年
     未二月日

 右古書は安政年間のもので106年ばかり経ているが、そう古い物ではない。この時代を想起するため、史実の認識を確立しておきたい。
 政治経済外交面では、当時は江戸幕府崩壊期であり開国攘夷運動の最も盛んな時代であった。即ち米英露とは既に和親条約が締結され、ロシヤとの国境が定められやがて米国総領事ハリスが下田に着任し、日米修好通商条約が議定となり、井伊大老就任して、独断五ヶ国と条約を結ぶこととなり、続いて安政の大獄がぼっ発するなど幕府を始め諸藩を挙げて国土の興隆方途について各の策謀に汲々とした時代であった。
 又文化社会面では、江川太郎左衛門の韮山反射炉が完成し、日章旗が日本国総船印しとして定まり、吉田松陰の松下村塾が開かれる等、政治外交面と相呼応して複雑をきわめた時代であった。
 さて課題の書に目を向けることにする。その頃吉田村出身の百姓惣右衛門が、たまたま大工職となり秩父大宮宿に借家住居していたが、不運にも中風を患い之を苦にして失踪してしまった。そのてんまつ及び今後の措置について、郷里中吉田村の関係者が同地の知行所へ家出人の届書を認めて差出したものである。原文の精神を尊重し現代文に解訳して参考に供したい。

 恐れながら書状を認めてお願い申しあげます。
御知行所管内の武蔵国比企郡吉田村字中吉田の名主である私からお願い申し上げますことは、当地の百姓惣右衛門が秩父大宮宿で借家住居して三ヶ年程大工渡世しておりましたが、巳年十月にたまたま中風を患らいこれを苦にして家出致してその行方が分かりませんのでそれぞれ親類組合が相談して各所を尋ねましたが今もって何の便りとてありませんので、恐れ入りますが御上様へお願い申し上げる次第でございます。この総右衛門は誠に誠実な男でございますのに何故家出したのか委細相分かりませんし尚亦恐れながら今後村方へ立帰り改心した節はぜひ百姓をするようすすめたいと存じます。
右の次第で行方が知れませんので、恐れながらお役人様へこの段お届け申し上げる次第でございます。後日のため親類組合連署してこの文書を差し上げます。
                    (助役)
     『菅谷村報道』163号 1965年(昭和40)9月30日

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2009年5月11日 (月)

掘出古書あれこれ 3 質地証文之事 安藤専一

   (三)質地証文之事
 天明六年は、西暦1786年に当り、光格帝の御宇将軍は10代家治の晩年で、翌七年には11代家斉に代っている。
 幕政面では老中田沼意次が失脚して,新人松平定信が老中としてその職を襲った頃である。ロシヤ船がわが北辺にしきりに来航し,やがて露使ラクスマンが根室に来て通商を求める等そろそろ対外的にもうるさい時代であった。又世界史によればアメリカ独立戦争ぼっ発の一七七五年の直後でやがてアメリカ独立宣言が見られ,アダムスミスが国富論を著したこと,朝鮮にキリスト教が弘まる等フランス革命への前哨戦とも思われ,世界を挙げて近代化へのあわただしさをはらむ時代でもあった。
 なお又天明の大飢饉は天明三年(1783)で、幕府は国内的には飢饉対策に腐心し対外的には海岸線の測量を強化して,従来の鎖国方針を続行すべく鋭意これ尽した頃である。
 題名の質地証文はその頃のもので次のとおりである

松下清九郎様御分之内 上田六畝壱分 沼下也 
一、午田方御年貢ニ相詰リ貴殿ヨリ御無心仕質地ニ相渡シ金壱両三分二朱只今恰請取御年貢上納仕候処実正也然上ハ貴殿方ニ而御年貢御請取御納上成御手作可上成候猶又年季の儀来ル未年ヨリ酉年迄三ヶ年ニ相定申候右本金壱両三分二朱返金仕候テ右之田無相違御返シ可下候若シ返金不仕候ハバ何ヶ年義御手作可上成候為念質地手形仍而如件
  天明六年午拾月日
                              地主 専蔵院
                              証人 平助
                              組頭 谷右衛門
         平兵衛殿

 右証文は天明六午年(1786)の紀年となっているので今から174年前の文章である。地主専蔵院(泉蔵院)は三宝山福王寺と号し当時下吉田村の檀那寺であったが、中吉田村の曹洞宗宗心寺の威勢に押されてその頃極度に衰退し百姓に田地を譲渡する程の貧乏寺であった。
 右地主専蔵院がその年の年貢に困窮して田地六畝一分を土地の百姓平兵衛に質地として譲り金子一両三分二朱を借り請けたのがこの質地証文である。
 その頃吉田村は折井市左衛門、山本四郎兵衛、曽我又左衛門、松下清九郎の四領主が知行しており、松下清九郎は下吉田の領主で,本質地も同氏御分の内の田地である。文章の内容として左記の事項が伺われる。

1、年貢に窮し田地六畝一歩を質地に出したこと。
2、その代償として金一両三分二朱を請け取ったこと
3、この金を買主の平兵衛から上納してもらうこと
4、年季は未年から酉年までの三ヶ年と定めること
5、その節返金した場合は田地を相違なく返却のこと
6、若し返金不可能の場合は何か年手作されても異議のないこと

など銘記され然も達筆の証文で判読に時間を費した次第である。当時は地主、証人の外必ず組頭又は名主も連署して,公文としての価値を高めている。
 尚文化十一年(1814)、文政九年(1826)等の質地証文の例も保存してあるが,記入形式などほぼ同様であるので省略してこの稿を止める。   (文化財保護委員)
     『菅谷村報道』161号 1965年(昭和40)7月25日

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2009年5月10日 (日)

掘出古書あれこれ 2 落着一切の事 安藤専一

   (二)落着一切の事
 この古書も大字吉田中島立男氏の古衾中から掘出した一つである。ここに原文を記録して当時の婚姻届の様式並びにその頃の時勢の一端を伺うこととする。

     落着一札之事
其御村方御同役半左衛門女子
一、ぎん  当弐拾参歳
右之者此度村方佐重郞殿謀を以村方百姓武左衛門殿ニ貰請申候処相違無御座候其村方武左衛門儀御法度之切支丹宗門之類族ニ而ハ更而無御座候然ル上ハ村方宗門人別両帳面書加ヘ候間以来其村方宗門人別両帳面御除キ可上成候為後日落着一札仍而如件
                         松平大和守領分
                          武州比企郡神戸村
                                 名主 宇右衛門 印
  寛永四亥年正月
       同州同郡吉田村
            御役人衆中

 遠く信長が京都に南蛮寺を建て、又大友、大村、有馬三氏の少年使節をローマに向わせる等キリシタンに厚意を示した時代もあったが、豊臣となり徳川に及んでは宣教使の極端な布教の結果から国民の不信を湧かせ遂に之を禁止する幕政は次第に強化された。その幕政強化の現われとして、キリシタン禁止令、ヤソ教禁止、踏絵の励行、鎖国令等次々と断行されるに至った。この異教法度の幕政は寛永年間も継続されており、各高札所ごとに落着(落附)書が取り替わされる際書中には必らずキリシタン宗門か否かを記入してその類族を確認することになっていた。
 各高札所には人別帳宗門帳があり該当地区の名主名で落着一札が届けられると、新たに当所の両帳に書加えてその人間の所在を明らかにした。この落着書記載によって初めて縁先の人間に認められ生地の両帳から抹消となるのである。この人別帳記載の仕事は現行の戸籍事務に相当するもので高札所の重要事務となっていた。
 私の手元に神戸村名主のもの、男衾郡千代村(せんだい)名主のもの、上州山田郡天王宿村名主名のもの、吉田村名主名で越畑村役人衆中宛のもの、羽尾村名主名のものなどがある。
 当落着書は嘉永四亥年正月の紀年があるので1851年に当り今より百十年前のものである。御宇は孝明帝であり将軍は12代家慶の晩年で、外国船がしきりわが沿岸に来航して通商を迫った時であった。幕府内に海防論盛んとなり諸藩に沿岸警備を厳命した頃である。しかし米露等のわが国との国交通商要望ははげしく、遂に米使ペリーは浦賀に露使プチャーチンは長崎に来航することになり、幕府は独裁に窮し諸藩に外交意見を徹しやがて米英露と和親条約締結を断行した。又ロシヤとの国交を定めるなど国内を揚げてが外交攘夷両論に明け暮れする徳川末期の波瀾万丈の時代であった。 (昭和39年師走冬至の日)
     『菅谷村報道』157号 1965年(昭和40)2月10日
*プチャーチン(1803-1883)。ロシアの提督。1853年長崎に来航。54年日露和親条約、58年日露修好通商条約を締結した。

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2009年5月 9日 (土)

掘出古書あれこれ 1 酉年小物成 安藤専一

   (一)酉年小物成
 本古書は大字吉田中島立男家の古衾*(ふすま)張替の折、古衾中より出た掘出物である。その内容をここに揚げ、ちょん曲時代田舎役人の面影の一端を偲んで見たい。

 酉年小物成
一 金壱分    水夫代
一 新そば粉   七升
一 篩わら   拾五束
一 莚      拾五枚
一 年徳御棚真木 三拾本
一 半紙     壱走
一 枝梯     弐把
  〆七品
右は当酉年小物成書面の通無相違相納受致申候  以上
 安永六丁酉年十二月
    松下清九郎内
       稲川四郎兵衛
       飯泉定右ェ門
    吉田村 名主
        惣百姓 中

 安永六年は西暦1777年に当り後桃園天皇の御宇、将軍家治の代で今より凡そ180年前の古書である。アメリカ独立戦争が勃発しやがて独立宣言が出されたのがこの頃であり、又ロシア船がわが北辺にしきりに来航し始めたのもその頃で、対外的には誠にうるさい時代であったが、国内は幕府が倹約経費節減を令する等幕政を強化した時代で、家治将軍が田沼意次を御用人として全国の人口調査を行わしめ又農民徒党の強訴を取締り税米等換金上納を命下するなど諸事の改革を企てた頃であった。
 この当時の下吉田村は領主松下清九郎の治行下にあった高札所の正月行事用として村方から■の小物七品が城主に上納されたもので、本書は現在の納品受領書に当る。松下領主配下の役人連名で納品した名主惣百姓中にこの受領書が手渡されたものである。
 書中篩は篩(ふるい)の古字でこの篩わらは注連などを作る材料とされ、高札所の年神棚の材料、年賀客の配膳用のそば粉、その燃料等まで上納させ、賀客の座席用新莚も民間から納付され、年頭には名主始め村方百姓たちがうち揃うて高札所に出頭してその年の祝賀を言上したものであろう。そして平身低頭して年頭のあいさつに及び新そばの馳走に預かって引下がった光景が今なお眼前に浮び出されるのである。   文化財保護委員
     『菅谷村報道』157号 1965年(昭和40)2月10日

*衾(ふすま):夜具。建具の「ふすま」は「襖」。

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