町の今昔 土橋家文書 忠大夫軍忠之状 安藤専一 1979年
歴史家は戦国時代を下剋上の乱世と評価している。
正にそのとおりで全国各地とも相剋相つぎ乱世の姿を如何なく暴露している。
中部地方の戦国大名として勇名をとどろかした諸候は、甲斐の武田氏、北越の上杉氏、遠江の今川氏、三河の徳川氏、尾張の織田氏、豊臣氏等々である。
本題は川中島合戦にまつわる武田信玄、上杉謙信の決戦に武田氏配下として参戦した土橋忠大夫の記述である。
天文二十二年(1553)信玄、謙信はじめて川中島に戦って以来、九年にわたる長い合戦であったが、永禄四年(1561)の戦いが最後の決戦であった。「甲陽軍鑑」は武田信玄とその子勝頼の事蹟を記した書で、その内容は、法制・事蹟・合戦・軍法など多方面に渡って記されてある。
著者は信玄の老臣高坂弾正信昌がその大部分を執筆し、甥の春日惣次郎が書きついだものとされている。この甲陽軍鑑に対抗して、謙信をたたえる軍記が「北越軍記」で、作者は宇佐美定祐となっている。
題名の土橋忠大夫が授かった軍忠の状は、甲陽軍鑑を執筆した武田家の老臣高坂弾正の名で出ているもので、次のような内容を持った書である。
信州川中嶋合戦之刻先鋒無比類
走廻神妙之至候 既爲加恩分下
塩尻郷七拾五貫文甲州上手郷百
七拾五貫文所宛行不可有相違
弥守此旨可抽軍忠之状如件
永禄四年酉九月十八日
高坂 弾正
泰之
土橋忠大夫殿
右軍忠の状は土橋家の租尚勝の祖父土橋忠大夫が、川中島合戦の折武功甚大のかどにより授かった御墨付で、今なお土橋家に秘蔵保管されているものである。
土橋家は、大字越畑字串引に在り、同家には源経基(六孫王)より尚勝の代に至る系図譜が残っているが、之によると先祖は、清和源氏系足利義高の子土橋下野守尚氏で、尚氏より三代を経て武田家に仕え(四代仕官)武田家没落により兄弟尚康・尚勝・尚定)三人共浪人の身となる。後長兄尚康は徳川家康に召出され、弟二人は武州松山城主に引取られた。その後松山落城の折、同列の内尚勝は比企郡越畑村字櫛引の地に落人として土着し現在に及ぶと聞く。
当家は三百数十年を経る旧家で土橋政一氏は第十五代に当たるという。
土橋家の古文書及び系図譜
一、古文書 忠大夫宛軍忠之状
永禄四年酉九月十八日付
一、家系譜 源経基より尚勝の代に至るもの
『嵐山町報道』280号 1979年(昭和54)5月25日
※土橋家の「土」の字は「土」に「`」をつけている。
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